ソロモンの偽証。
ソロモンの偽証を観た。
前後編、併せて5時間程度か。
あらすじを書くのはちょっと骨が折れそうなのでウィキペディアをご覧ください…。
観終わっての、というよりは鑑賞中からだが、湊かなえの告白の劣化版、もしくは告白をマイルドにしたもの、という感想を払拭できない。
学校という舞台、学校内裁判という建前ではあるが主に当事者の独白の形式を以て語られ、新たな事実(と思しき事柄)によって上書きされ、明かされていく真実、という構成それらがそう思わせるのであろう。
告白の場合は、湊かなえのどうしても解けない呪いのようなストーリーと、中島哲也の構成の妙と映像美が折り重なって素晴らしい映画(僕の中ではdancer in the dark、式日と並んで、絶対の覚悟を以て臨まなければならない作品)だったが、宮部みゆきは児童文学作家でもあるし、鑑賞後に刺さって抜けない棘のようなものが残っている感覚は薄い。
なので、5時間かけて鑑賞して、なんだよこの終わり方!と感じる人は少ないのではなかろうか。
観賞後の後味としては悪くない。
ただ、これを観るなら告白を観るかな。
しかし、ソロモンの偽証、というタイトルはどうなのでしょうね。
大仰に過ぎるというか、どうしてもそのタイトルを付けなければならなかった理由がないように思われる。
作品内で(学校内裁判で)偽証をした登場人物は一人だけなので、誰がそれなのかは一目瞭然ではあるのだが、果たして「ソロモン」の「偽証」とはどういう意味なのか?
「ソロモン」とはそのまま古代イスラエルの王であるソロモン王のことであろう。
ソロモンの72柱の魔神の逸話は、必ずどこかで耳にしていることは疑いようもないほどに有名である。
そのソロモンだが、恐らく正典ではない、偽典からタイトルを取っているように思われる。
物語りの中で、偽証をした人物が「それなら死んだ松子に訊けばいい!!」という言葉を吐くシーンがあるのだが、僕が思うにその一言は、タイトルにこじつける為に後付けで追加されたものではないかと思う。
(ソロモンの偽典の多くはネクロマンシーについて記されていた、とされる)
そして「偽証」に於いても、物語りに於いて重要なのは学校内裁判で偽証をしたことではなく、まず濡れ衣を着せて殺人の容疑をかけたことなのである。
舞台装置として学校内裁判を開廷するに当たって、まず重要なのは如何にして裁判を起こさせるかということなのであり、偽証自体はあってもなくても物語りは成立する。
以上のことから、ソロモンの偽証というタイトルは大仰に過ぎはしまいか、という感想に繫がるのである。
二人の主人公の内の一人(弁護人)が、偽証をした人物を救いたかった理由も特に納得感がある訳ではなく、弁護対象であるはずの被告人を攻撃するシーンに説得力がない。
等々の突っ込み所は数多あれど、前述したように、鑑賞後の後味は悪いものではなく、前向きな終わり方なので、時間に余裕がある方は観てもよいのではないかと思います。
藤野涼子がとても素晴らしい演技をしているので、それだけでも観る価値はあると思います。
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