ねえ、瞳は冬の瑪瑙。
人は、余りにも美しい文章に出会ってしまったときにどうすればよいのだろうか。
ただその美しさに打ちひしがれているしかないのだろうか。
例えばこんな詞がある。
更新されていく季節
繰り返し入った悲しみは
透明な雪になり真夏の街に降っている
ジェンガが崩れたら私たちは消え
新しい代わりの私たちが
何食わぬ顔で街を歩く
恋をしたり傷つけあったり歌を唄う
まるで初めてのことのように
小さい頃 島根の納屋にあった
めのうを指で拾い上げる
亡くしてしまったものを確かめた
おまじないを忘れてもまた会えるだろうか
友達も恋人もみんな漏れなく死んでしまった朝に
ひとりぼっちの夕暮れに
おまじないを忘れても
また人として生まれてこれるだろうか
その時は会って出会って
今度は本当の歌になるんだ
なんという美しい詞であろうか。
マヒトゥザピーポーの「めのう」という歌の、最後の、ポエトリーリーディング、というよりは、つぶやきの部分の歌詞です。
以前に書いた、「不完全なけもの」というアルバムに収録されている曲で、青葉市子との合名のユニットであるnuuamuにも収録されている曲なのですが、こちらは最後の詩の朗読の内容が違います。(nuuamuの方の、最後の、「縫う、編む」も大変美しいです。)
どちらも素晴らしく美しいのですが、僕は個人的には不完全なけものの詩の方が好きです。
「おまじないを忘れても、また会えるだろうか。」
なんという美しい感性、なんという美しい詞だろうか。
gezanも好きだけど、どうしても美しいものに惹かれてしまう。
きっと会えるよ、なぜなら、こんな美しい言葉に応えない訳がないから。
この世界が。
この、世界が。
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